2012年1月25日水曜日

屠殺場で  滝口雅子

逆さまにぶら下つた牛ののどから
血があふれる
ざあ・あ・あ・あー
音を吸いこんであふれる
コンクリートの床を染めて
ひろがる血のいろに
女のつめたい横顔がだぶる
 紅い帯をきりりと
 腰に巻きしぼつていつて
 いのちの根をちよんと引きぬく
 物質だけが残る

瞼に 人間の手がかかると
脚が横倒しになる
恐怖の速さで
つぎに ゆつくりと
脚がふるえてえがく半円
一日四百頭がえがく脚の半円

天井のレールをすべつて
肩にぶちあたる肉
ぶあん
ぶ厚い脂肪の弾力と
血のにおいのなかで見失う
愛とか悲しみというものの実体
いのちをなくして恋人が
交歓する

屠殺待ちの小屋に夕陽がさして
去勢牛が交尾した




「屠殺場で」は、滝口雅子の第二詩集『鋼鉄の足』(昭和35年)に収録されている。同年に第一回室生犀星賞を受賞。

日本現代詩人会の創設者の一人である村野四郎は、この詩について以下のように敷衍(ふえん)している。「男」にさいなまれる「女」の酷さと悲しみのイメージをダブらせている。「紅い帯をきりりと/腰に巻きしぼつて」愛のない男の性欲に殺される女のむごさと哀れさとが、横倒しになって空間にもがく牛の脚の光景と入りまじっている。(中略)もはや愛も悲しみもありはしない。(中略)肉体だけの交わりに引き裂かれる女の苦悩と悲哀とが、屠殺場の血の中に感じとれるように描かれている。

実に興味深い鑑賞能力であるが、女が男にさいなまれることや、愛のない男の性欲に女が翻弄されてしまうことなど、とどのつまりは、肉体だけの交わりに引き裂かれる女の性というものが、いまひとつこの詩の中から、つかみきれないように思う。また、愛がないというが、「いのちをなくして恋人が/交歓する」と綴られていることも気にかかる。

「屠殺待ちの小屋に夕日がさして/去勢牛が交尾した」という結びは、推敲することによって、さらに秀逸した詩へと変貌を遂げる。ともあれ、最後に一行はみごとな表現である。


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